[5巻15冊21音無川       

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 ☐音無川 <5巻15冊21>                   【不許無断転載・個人蔵】
                                                  2009/12/10記入
※左面は[飛鳥山全図其一右面]     ※右面拡大に進む。
場所 北区王子本町1-1
最寄り駅 JR京浜東北線王子駅下車徒歩2分、地下鉄東京メトロ南北線王子駅下車徒歩3分、
 都電荒川線・王子駅前下車3分

挿絵は飛鳥山と王子権現の間に谷間をつくる石神井川(この辺りを音無川という。)が、王子の堰埭(いせき)で、その流れを堰き止められ、かつ堰埭の溢流が滝のように落下する様を描いたものである。
挿絵中央、画面奥からこちらに流れ来るのが石神井川である。画面向かって左が飛鳥山、右が王子権現である。石神井川の流れは、上流で板橋区との区境あたりから渓谷をなし、石神井渓谷・滝野川渓谷、王子近辺では音無渓谷を造った。飛鳥山と王子権現の間を流れるこの挿絵の辺りは音無川と呼ばれた。王子権現が熊野神社の分社であることから、紀州熊野神社のわきを流れる川の名前を取って名付けられたものである。
『江戸名所図会』「音無河」の項にも「王子権現の麓を流る。(故に紀伊国音無河を模してかくは名づくるとぞ。)本名を石神井川といふ。(武州石神井村三宝寺の池より発するところなり。)下流は荒川といふ。(世俗滝野河と云ふは誤りなり。滝野河村と号して河の号にはあらず。)」とある。
挿絵中央部「堰埭(いせき)」は「王子の大堰」と呼ばれ、現在の音無橋の真下辺りにあり、堰部の豪快な瀬音と流れに対する貯水部の静かさの対比がおもしろかった。
大堰は少なくとも明暦二年(1656)以前に下流の田に灌漑用水を引く目的で石堰が築造され、天明八(1788)の絵図によれば、長さ九間半(17.1m)、横二間一尺(3.9m)、高さ八尺(2.4m)であった。
天保元年(1830)の新編武蔵風土記稿には「王子川の内金輪寺峡下(はけした)に設く、長拾二間(21.6m)、高さ一丈(3m)許。始は5間許も水上に置きしが、水勢に逆ふて不便なれば、明暦二年(16551)今の処に移す。御請所にて用水組合26ケ村持」とある。
数度の普請で大きさには変化がはあったが、昭和の時代まで堰は持続された。しかし昭和四十三年の石神井川改修で現在の飛鳥山バイパスと呼ばれる導水路トンネルの完成にともない、撤去された。
昭和八年(1933)頃の「滝野川町史」には「周囲の眺望実に佳く、この橋(音無橋・昭和六年・1931竣工)より下を見下ろせば音無川の飛瀑烟の如く立上がり両岸の樹木亦頗る奇にしてさながら仙境の感あらしむ」と記されている。

石神井川三つの流れ
飛鳥山・石神井川・用水・岩槻街道(日光御成道)・金輪寺・王子権現の位置

王子大堰の目的は水田の灌漑用であったが、江戸の人々はこの景を名所に仕立てた。
挿絵では王子大堰より分水される灌漑用水路である下郷二十三ケ村用水、上郷三ケ村用水の流路がよく描写されている。
下郷二十三ケ村用水は、石堰より分派し、飛鳥山下を流れ、西ヶ原、梶原、堀之内、田端、新堀、三河島、金杉、龍泉寺、山谷、橋場を経て浅草川に達するもので、吉原に通じる日本堤の脇を流れる山谷堀はこの灌漑用水の終末であった。上郷三ケ村用水は、大堰で分水、王子権現の南の崖下をとおり、旧十条村、王子村、豊島村の灌漑用水として使用された。石神井川本体は、王子の低地にでると直ぐに東に流路を変え、ややあって北東に流れを変えて荒川に至った。
戦後になって、石神井川流域周辺は急激な住宅地化、都市化にともない自然による水量調節が機能しなくなり、その結果、流域がいったん暴風雨や集中豪雨などに見舞われると、川の水が急激に増加し、方々で濁水があふれ出すようになってきたため、洪水対策として、川筋の直線化、護岸工事、川底の掘り下げなどの改修工事が行われた。特に王子駅は、駅舎の建っている場所が石神井川の本流の上に位置していたので、増水で氾濫した濁流が、そのたびにごとに駅舎に勢いよく流れ込み被害をもたらした。また、この付近一帯は、音無橋のすぐ上流と王子駅の下の2ケ所で、川筋がほぼ直角に曲がっていたこともあって、特に洪水を起こしやすかった。
これらの洪水対策として、音無橋の上流部で飛鳥山の山腹を抜けるトンネルを掘り、川の水をまっすぐに流す延長472mに達する飛鳥山バイパスと呼ばれる水路の昭和四十三年の完成により、王子駅付近での洪水の悩みは解消した。
飛鳥山バイパスの完成にともない不要になった堰は撤去され、水路部は、昭和六十三年(1988)北区が「音無親水公園」として整備し、水遊びの出来る人工的な公園として再生させた。
挿絵を見よう。
画面上部の山々は滝野川村である。石神井川はその山々の手前を向かって右から左に流れ込み、中央部左手で流れを北東方向に直角に変えている。小さな滝状の段差を持つ急な勾配を流れ落ちているさまを想像させる。
流れを変えた辺りの右岸に小さな川が流れ込んでいる。千川用水の端末の一つであろう。また崖上には、岩槻街道が飛鳥山を廻り込んでいる。山下の料理屋もこの辺りまで連なっている。
反対側左岸には崖下から木組を組み上げた、金輪寺(きんりんじ)の将軍の御成りの際の御座所、及びその前の舞台である御物見がある。飛鳥山と谷を隔てた所に建つ御座所からは、飛鳥山・音無川の景観が一望でき、大堰の水音も聞ける程であった。御座所については、将軍家光が、王子権現や別当坊の社殿を造営されたときに建てられ、将軍の日光参拝時には小休息所としてたびたび用いられた。『新編武蔵風土記稿』「別当金輪寺」に、「・・・慶長の頃、東照宮(家康公)此邊御放鷹の時、当寺へ成らせられしひて台徳院殿(秀忠公)大猷院殿(家光公)にも御立寄あり。寛永十一年(1634)宮社別当坊御造営の時金輪佛殿の西續へ上段御座所をも建てさせられしより御膳所となり、其後享保五年(1720)修理を加へられし頃、南の方崕の端へ別に御座所を建續けられ、且其前に舞台を設けられしとなり。此御舞台より咫尺(ししゃく・すぐそば)に飛鳥山を眺め、眼下には王子川漲(みなぎ)り流れて石堰に激せる水聲潺湲(せんかん・水が流れる音)として響き渓間の茂樹春花秋楓の観美を具し最絶勝つなり。・・・」とある。
金輪寺は、飛鳥山を望む現在の北区役所第二庁舎付近にあり、王子神社、王子稲荷神社を管理する別当寺だったが、万延元年(1860)の火災により焼失し、明治の神仏分離により廃寺になった。その後の明治三十六年残っていた子院が王子山金輪寺としてその名跡を継ぎ、場所も変わったが現在に至っている。
 ≪※FJTF/OYMK/HSTT 草案 ≫ 

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