[7巻18冊58亀戸邑道祖神祭]  

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 ☐亀戸邑道祖神祭<7巻18冊58>                    【不許無断転載・個人蔵】
                                              2013/4/11記入

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場所 香取神社:江東区亀戸3-57-22
最寄り駅 香取神社:JR総武線「亀戸駅」下車徒歩約10分

挿絵は今は絶えてなくなった、亀戸地域の道祖神祭の情景を描いたものである。
挿絵注記には、「亀戸邑道祖神祭り 毎歳正月十四日にこれを興行す。この地の童子(わらわべ)多くあつまりて菱垣(ひがき)造りにしたる小さき船に五彩(いついろ)の幣帛(みてぐら)を建て、松竹などをも粧(そう)(しよく)し、その中央に「宝舟」といへる文字を染めたる幟を建てたるを荷担(にな)ひ、同音に唄ひ連れて、この辺りを持ち歩行(ある)けり。その夜童子集会して遊び戯るるを恒例とす。」と紹介している。
亀戸村では、享保のころから毎年1月14日に疫病を除く「道祖神祭り」が香取神社を中心に行われてきた。その祭りの時に使われた宝船の一つと、広重が道祖神祭りの情景を描いた肉筆画「紙本淡彩道祖神祭図」が香取神社に保存されている。
道祖神は主に村境や辻において災厄の侵入を防ぐ神とされ, 子供の成長や子宝・縁結び・五穀豊穣祈願などを対象として全国に広く祀られている。道祖神祭りは、もともと、村の入り口で行い、疫病や邪神が村へ入ることを阻止するための行事であったが、亀戸の道祖神祭りは、さらには道祖神を村の守り神として、祭にその村落の、各家々を訪ね、お祓いとお祝いをしていた名残なのであろうか。
現在の道祖神祭りは門松や注連飾りによって出迎えた歳神を、それらを焼くことによって炎と共に見送る意味があるとされる左義長(さぎちょう)やどんど焼きなどの習俗と混合されている場合が多い。

 
 香取神社宝物殿にある道祖神祭・宝船

『東都歳事記』の一月十四の項には「亀戸道祖神祭」として、「此辺の小児大勢群がり、紙糊(ハリヌキ・張りぼて)の寶船を作りて荷う。船大さ四尺程、檜垣造り、或いは茶船の形に造り、五色の幣をたて、みよし(船の先端の方の釣坐)の方へ松飾りをなし、中に寶船の二字を染たる幟を立、同音に「千艘万艘御ふねが参った、銭でも米でもどんといっぱい、おっつめろ、さい(歳)の神を祝ふ」といふて、家別に徒歩行、初穂をうく。又当番の家にては道祖神に神酒供物燈火をささげて、其夜小児の日待をいとなむ。此事久遠にして、其始を知らずとなん。」とある。
このように亀戸村の道祖神祭は、五色の幣を掲げ、松や竹で飾った宝船を二人の子供が担ぎ、声高らかに「千艘万艘、御ふねが参った。銭でも米でもどんと一ぱい、おっつめろ。さいの神を祝ふ」と亀戸っから両国辺りまでを練り歩き、その日集まった大勢の子供たちは、夜更けまで遊んだという。この行事は、子供の健康やすこやかな成長を願ったものである。

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 香取神社蔵・広重・亀戸村道祖神祭図

 [挿絵を見よう]
まさに宝船を担いだ一団が、「「千艘万艘、御ふねが参った。銭でも米でもどんと一ぱい、おっつめろ。さいの神を祝ふ」などと叫びながら、村のある一軒にたどりついたところである。家の下駄を履いたお婆は心得て、男面をつけた先導の子供に、笑顔でおひねりを渡している。もう1人の先導の子は幣をもち烏帽子をかぶっている。家の中からは障子を少し開けて、娘が二人、宝船の一団をみながら、「おほほ・・」と笑っている。農家では玄関と勝手口は共用であろうが藁葺の勝手口にはしめ飾りがぶらさっがている。流しや包丁、すりこ木、竃が見える。
二人の子供に担がれる寶船には「寶船」と書かれた幟が建てられ、五色の幣で飾られ、訪問先でいただいたおひねり(御初穂)も乗っかっている。天狗と狐の面をつけた二人は「それやれ、これやれ」と寶船を担ぐ二人を元気つけている。夕闇がせまってきているのだろう。最後尾にいる子は提燈に火をつけている。農家の向こう角には、宝船の別の一団がやってきている。別の一団の向こうには、水の流れがある。 

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