◇『江戸名所図会』挿絵のテーマ別検討・整理
巨樹・巨木・古木・銘木 梵鐘 『熙代照覧』に見る江戸の商人・職人
     
 □梵鐘                                 2011/1/10~
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目次   1、大門通りの梵鐘   2、品川寺の梵鐘 3、浅草寺の時の鐘  4、芝・増上寺の梵鐘 
       

[『江戸名所図会』で梵鐘を歩く・・・4]
【芝・増上寺の梵鐘】                      2011//10  HP編集担当
『江戸名所図会』巻一の挿絵「三縁山増上寺」其三には増上寺の本堂に向かって境内右前端に鐘楼が描かれており、梵鐘が架けられている。
現在も、東京都港区芝公園4-7増上寺境内のほぼ同じ位置に鐘楼があり、梵鐘が架けられている。

 
増上寺鐘楼  増上寺梵鐘

『増上寺のウェブ』には鐘楼堂として「最初の鐘楼堂は寛永十年(1633年)に建立されましたが、現在の鐘楼堂自体は戦後の再建によるものであります。鐘楼堂に収められている大梵鐘は、延宝元年(1673)にあまりの大きさに七回の鋳造を経て完成し(東日本で最大級といわれております)、江戸三大名鐘の一つに数えられています。朝と夕べ、二回撞くその鐘の音は、時を告げるだけではなく、人を惑わす百八の煩悩を浄化し、人々の心を深い安らぎへと導く六度の誘いでもあります。江戸時代の川柳には『今鳴るは芝(増上寺)か上野(寛永寺)か浅草(浅草寺)か』・『江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘』・『西国の果てまで響く芝の鐘』(※古川の南には有馬家や島津家などの西国大名屋敷があった。))等と謳われ、江戸っ子鐘と親しまれています。」と説明している。
『江戸名所図会』には、大銅鐘として「本堂の右の方にあり。鐘の厚さ尺余、口の渡り五尺八寸ばかり、高さ一丈程あり。銘に曰く新鋳洪鐘(あらたにこうしょうをいて)掛三縁山増上寺之楼。二十六世森誉上人歴天大和尚、延宝元癸丑(みずのとうし)年(1673)十一月十四日。奉行神谷長五郎平直重、須田次郎太郎源祇寛(ただひろ)、鋳工椎名伊予吉寛(よしひろ)云々。その声洪大にして、遠く百里に聞ゆ。一撞の間の響尤も長くして、行人一里を歴(ふ)るとて、諺に一里鐘と称す。風に従ひて、当国熊谷の辺に聞ゆる事あり。かしこは江戸より十六里を隔つ。又安房・上総へも聞ゆるといへり。」とある。
『縁山志』には、この鐘に関して「始寛永六巳年(1629)六月廿三日鋳師兵庫鋳之不成(此時、外の鐘を以掛置之)、次慶安元子年(1648)五月十二日再山城鋳之又不成。延宝元丑年(1673)十一月廿四日鋳之。品川御殿山にて今彼所に鐘が松あり。鋳たる處に記し植えしとか。今の鐘是なり。」とあるし、江戸初期の市中風俗を考究した随筆『事蹟合考』(1746年)には、「増上寺大鐘厳有公(4代将軍家綱公)の御世まで凡そ七度ひびれ申候。因玆鉄砲御用衆井上左太夫元祖外記に仰付られ何とそ此鐘の永代やふれざる地金あはせ工夫可致旨仰付られ候處、とたん(亜鉛)といふ金を入候て永代破れ申ましきと申し上るに依て即御鋳物師椎名伊予に被仰付、右の金をいれて鋳立候處ろ今に至り少しもひび入らずとなり何十里もひびき候なり。」とある。大きいだけに、鋳造は難しく、たびたびひびが入ったことがわかる。将軍家綱(四代)の命により、奥方のかんざしなど多くの寄附を集めて鋳立てたと伝わるが、これが永代破れざる地金のための合金の為の金属であったのかどうかは不詳である。
『増上寺史料編纂所所報』には、鐘楼として「桁行四間一尺五寸・梁間三間二尺五寸、柱十二本。鐘は長さ一丈、重さ四千貫目。この鐘の余り鉄にて一鐘を鋳し境内切通しへ掛く」とある。
また、鐘楼の脇に建てられた解説板には、大梵鐘として「延宝元年(1673)、品川御殿山で椎名伊予守によって鋳造されたもので、高さ一丈(約3m)、重さ四千貫(約15t)の大梵鐘。時の将軍家綱(四代)の命により、奥方のかんざしなど多くの寄附を集めて江戸で初めて造られた鐘である。
『今嗚るは芝か上野か浅草か』・『江戸七分ほどは聞える芝の鐘』 この大梵鐘は、木更津まで響いたといわれ、江戸庶民に親しまれ、多くの川柳を生んでいる。」とある。
戦後に再建された鐘楼堂に収められているこの大きな鐘は椎名伊予吉寛が品川の御殿山で鋳造したもので、延宝元年(1673年)に七回目の鋳造で完成したといわれている。高さ八尺(龍頭を入れると一丈、約3.3m)、径五尺八寸、重さ四千貫(約15t)といわれ、江戸時代の梵鐘としては東日本最大のものである。時の四代将軍家綱の命により、奥方のかんざしなど多くの寄附を集めて江戸で初めて造られた鐘である。江戸三大名鐘の一つといわれているが、残り二つは上野寛永寺・浅草浅草寺といわれているが、内藤新宿天龍寺の時の鐘、牛込市谷八幡の時の鐘だともいわれ、定説はないようである。
作者の椎名伊予守吉寛は、江戸時代前期(一七世紀後半)に活躍した江戸の鋳物師で、神田鍋町に住した。延宝元年(1673)から貞享三年(1686)にかけて、銅鐘を中心に一七の作例が知られている。
厳有院殿(四代将軍家綱)の一周忌にあたる、延宝九年五月八日に上野寛永寺の厳有院殿廟前の鐘楼に奉献された、総高1772cm、口径92cm之梵鐘も椎名伊予守吉寛の作品である。明治維新以降に、寛永寺根本中堂の鐘として、現根本中堂前の鐘楼に架けられ、除夜の鐘や重要な法事の際に使用されている。
椎名伊予守吉寛が鐘を鋳立てたという御殿山の地については、『新編武蔵風土記稿』の荏原郡御殿山の項に、「・・・山北炮術稽古場ノ界ニ一株ノ古松アリ。土俗鐘鋳松と呼ブ。圍一丈、芝増上寺洪鐘ヲ鋳シ跡ナリト云フ。此鐘ハ延宝元年(1673)小普請奉行須田次郎太郎祇寛(ただひろ)、神谷長五郎等奉テ十一月二十四日鋳成ス。・・・」とある。現在地でいうと東京都品川区北品川3丁目4辺り、品川女子学院の北西部からJR線路辺りになるのであろう。複数のJR線路を渡る御殿山橋の東詰めから東北部にかけての辺りである。この辺り幕末の土採り場となったため往時の姿は全くとどめていない。

 品川・御殿山・増上寺鐘鋳造所辺り
 
芝切通し・時の鐘 

さて江戸時代、増上寺の北西部に隣接して芝切通しがあり、切通しの上に現在は残っていないが「時の鐘」があった。落語や芝居等に増上寺の鐘の音と芝切通しの時の鐘の音が舞台廻しの一つとして良く使われているが、両者が混同されていることがある。増上寺の鐘はあくまで寺鐘であるので、寺の催事に合わせて撞かれたし、切通し「時の鐘」は時報であったから、刻毎に撞かれた。
芝切通しの「時の鐘」は、初め、東京タワーの北西、桜田通り沿い、飯倉交差点の少し北にある西久保八幡社にあった。『改撰江戸誌』(江戸の地誌であるが、原本は残っておらず成立年代は不明。文政以前にすでに存在が確認されている)に、「元和五年(1619)末、長谷川豊前といひしもの、此社内にて時の鐘をつきそめたり。のち切通しに移りしと。此所の鐘は寛文十年(1670)に撞き破りしと云う。」とある。元和五年には時の鐘が建てられたが、寛文十年に割れてしまった。その後は上述の『増上寺史料編纂所所報』に「・・・この鐘の余り鉄にて一鐘を鋳し境内切通しへ掛く」とあるように、増上寺の鐘に次いで、延宝二年(1674)には新しい鐘が完成、芝切通しに70年ぶりに「時の鐘」として復活している。
増上寺の鐘は現在も朝夕撞かれている。寺男が身体ごと後ろに仰け反るようにして引き綱を強く引き、思い切り撞木を叩きつける様は圧巻である。大梵鐘である。音は耳ではなく、ゴゥ~ンと全身に響く。音はうなりを伴い、消えたと思うとまた唸りだす。音の大きさは江戸時代と変わらないだろうに、木更津や熊谷まで届くなどとても考えられない。東京タワーの辺りで、かすかに聞こえる事がある程度である。騒がしい時代になったものである。
『大欲-小説河村瑞賢』(峯崎淳・講談社)の「四千貫の釣鐘」という項に、切れて落ちた増上寺の大梵鐘を破格の安さで請負い、見事に吊り上げた話が河村瑞賢の才覚を示す一例として記されている。
小説ではあるがこのような話はあったのかも知れない。
要旨を記す。河村瑞賢は、江戸前期の商人(1618-1699)で、米を筆頭とする諸国物産の安全・効率的運送ルート開発に活躍した海運・治水の功労者である。幕命を受けて行った東廻り航路及び西廻り航路の海運航路の開発で有名である。

・・・重みに耐え兼ね釣鐘を吊っている掛け金が折れた。鐘は凄まじい音を立てて落下し、鐘楼から転げ落ちて、横に寝てしまった。竜頭をかける丈夫な鉄の掛け金は、奇特な大名の寄進を受けたので、釣鐘掛けを江戸中の請負人に募った。
近江屋の見積りは三百両。掛け金の真下まで緩やかな傾斜の数十間の頑丈な足場を組み、修羅(巨石を運ぶそり状のもの)に載せて鐘を運び上げようというのである。まず倒れている鐘を起こし、鐘楼から数十間向うの足場の入り口まで運び、それから足場の上を再び鐘楼まで戻ってくるというやり方である。足場を組むのに一月、鐘を運ぶのに二月、養生の日数を入れて三月はかかるという。見積りでは一日三百人の人足を使うとしている。人足賃を一日四十文と安く見積っても九十日で二百七十両かかる。
他の店もわずかな金額の違いはあっても仕事のやり方や人足の使用数などはほぼ同じだった。みな四千貫という重さに恐れをなしていた。河村屋の見積りだけが全く違った。「鐘を吊ること、金五十両にて謹んでお請け申し候」とある。
いつもより早起きした瑞賢は、轆轤(ろくろ・滑車)と修羅と太い麻綱と丸太を積んだ荷車を引き増上寺に向かって出発する。増上寺の手前まで来ると、瑞賢は数人の手代たちを芝近辺の米屋に走らせた。
瑞賢は位置を定め轆轤を四台据えさせた。杭を打ち込み、しっかりと固定する。太い丸太を立て滑車を吊るす。次に、ごろんと地べたに横たわっている巨鐘の竜頭に麻縄を四本通し、それぞれの先に轆轤を繋いだ。そうした下拵(こしら)えがおおよそ済んだ頃、最初の米屋が、米を三俵積んだ荷車を二台、屈強な若い衆に引かせて到着した。瑞賢は米屋に六俵の米俵を鐘の脇に並べさせ、ついでに轆轤を廻すのを手伝ってくれ、と言った。「ようがす」と米屋は若い者を瑞賢が指示した位置につかせた。
そうしているうちに次の米屋がやってきた。瑞賢はそれにも同様の指示をし、手伝いを頼んだ。その次の米屋も同様だった。鐘の回りに米俵が山と積みあがった。
「それっ!」瑞賢の号令に従い、米屋の若い者がもや綱を引く。ぎいっ、ぎいっと轆轤が軋(きし)む。倒れていた鐘が竜頭のほうからゆっくりと頭を擡(もた)げる。 瑞賢は鐘が持ち上がると開いた駒の口の下側に米俵を置かせた。十分に俵を入れると、今度は鐘を反対側に傾け、また開いた反対側の口の下に米俵を詰めさせた。こうして右、左、右、左と米俵を高く積んでいくと、竜頭はいつのまにか鐘楼堂の屋根の下まで届く高さになっていた。
ほぼ、鐘の口の部分が堂内の俵の上と並ぶと、瑞賢は大きな丸太を数本その上に置かせ、修羅を鐘の下に差し込んだ。鐘がすっかり修羅の上に乗ったのを確めると、しずかに曳いた。修羅は、丸太の上を滑った。後はレの字の形をした掛け金に竜頭を掛けるだけである。
掛け金に竜頭がしっかりかけられると、たちまち下の米俵が取り除けられた。
瑞賢は米屋たちに礼を言い、買い値の一割引で米を売ると宣言した。米屋たちは大喜びで持ってきた米を積んで帰って行った。
申(さる)の刻(午後四時)にはすべての仕事が終っていた。酉(とり)の刻に撞く入相(いりあい)の鐘に間に合ったのである。・・・

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[『江戸名所図会』で梵鐘を歩く・・・3]
  【浅草寺の時の鐘】                      2011//10  HP編集担当
『江戸名所図会・巻五 』「金龍山浅草寺」の挿絵其二の左面上部、小山の上の「銭瓶弁天社」の前、西側に「時の鐘」が描かれている。現在もこの位置に「時の鐘」があり、午前6時には時報をつげている。江戸時代、人々に時刻を知らせる役割を果たしていたのが時の鐘である。当初、江戸城中にあったが、江戸市街地の拡大にともない日本橋本石町にも設置され、さらには浅草寺や寛永寺(上野山内)など、九箇所でも時を知らせた。

『江戸名所図会』巻五・挿絵「金龍山浅草寺」其二(部分)時の鐘

浅草寺の鐘の大きさは龍頭、鐘身あわせて総高2.12m口径1.16m直径1.52mと大型のもので大正末までは時の鐘として使用されていた。鐘銘によれば、「撰文は浅草寺別当権僧正宣存で、寛永十二年(1635)三代将軍家光により本堂その他の伽藍を再建されたが、火災等の災害により、伽藍の痛みも大になったため、五代将軍綱吉は元禄四年(1691)、下総国佐倉城主戸田忠昌を奉行に任じ本堂をはじめ伽藍の大修復にあたらせた。楼上に架けられていた鐘も破裂があるため、太田近江大掾藤原正次が改鋳にあたり、元禄五年(1692)完成した。その費用として牧野備後守成貞(綱吉の側用人・下総関宿藩主)が黄金二百両を寄進した。」とある。また鐘を改鋳した時、黄金を混和させれば、その響き良くなると、黄金二百枚を、坩鍋(るつぼ)の中に投したという話も伝わっている。
上野の山の「時の鐘」は寛文六年(1666)に設置されたが、現在のものは天明七年(1787)に改鋳されたものである。浅草寺の「時の鐘」は上野のものより100年も古いものである。
この鐘は、松尾芭蕉の句、「花の雲 鐘は上野か浅草か」で有名であるが、この句は貞享四年(1687)に詠まれたものであるから、現在の鐘が元禄五年(1692)に改鋳される以前の鐘の音を聞いて詠んだものである。この鐘は昭和二十年三月の東京大空襲で火を浴びたが無事に残った。鐘楼は同空襲で焼け落ち、昭和二十五年に再建されたものである。なお当時江戸市中には日本橋石町、浅草寺、上野寛永寺、芝切り通し、本所横川町、市ヶ谷八幡、目黒不動、赤坂田町成満寺、四谷天竜寺の9カ所の時の鐘があった。

弁天堂と時の鐘   浅草寺・時の鐘
浅草寺・時の鐘 浅草寺・時の鐘

浅草寺の梵鐘改鋳にr牧野備後守成貞(綱吉の側用人・下総関宿藩主)が黄金二百両を寄進したと伝わるが、内藤新宿の天龍寺の時の鐘も初代のものは元禄十三年(1700)牧野成貞により寄進されたものと伝わる。(天龍寺の「時の鐘」、現在の梵鐘は3代目で、明和四年(1767)の鋳造のものである。)また天龍寺に伝わる鐘を突く時刻を知るための「やぐら時計」も牧野成貞により同時期に寄進されたものと云われている。

 
内藤新宿・天龍寺・時の鐘   内藤新宿・天龍寺・時の鐘 牧野成貞寄贈の和時計 
『江戸名所図会』巻五・挿絵「金龍山浅草寺」其二・其三(部分)鐘楼
広重・東都名所・浅草金龍山(部分)に描かれている鐘楼
伝法院・至徳の古鐘

時の鐘とは別に、『江戸名所図会』「金龍山浅草寺」の挿絵其三の左面、随身門を入って右側、三社権現(現・浅草神社)の南にも鐘楼が描かれている。この鐘楼は『江戸名所図会』の刊行とほぼ同時期の「天保期(183043)に描かれた思われる広重の「東都名所・浅草金龍山」にも書き込まれている。この鐘楼は慶安二年(1649)建立、五間一尺五寸四方であったと伝わる。
しかし明治三十年発行の『新撰東京名所図会』にはこの鐘楼に関する記述はなく、浅草寺の挿絵にも、特徴ある鐘楼の姿は見いだせない。台東区発行の『史跡をたずねて-したや・あさくさ-』の「至徳の古鐘」の項に、「伝法院庭園の中に古鐘が置いてある。鐘の銘をみると「至徳四年五月三日、鋳工和泉守経宏」とあり、至徳四年(1387)に製作されたかなり古い梵鐘(高さ三尺二寸二分、龍頭九寸五分)である。この鐘はもと浅草寺境内にあった熊谷稲荷の竹藪の中にあったが、貞享年間(168487)、随神門(現在の二天門)北の鐘楼に置かれ、明治になり伝法院庭園に移されている。」とある。これから推察するに、江戸末期には現・二天門の西北に、「時の鐘」とは別に、鐘楼があり、「至徳の鐘」が吊り下げられていたが、明治の初期にこの鐘楼は撤去され、鐘だけが伝法院に移されたということのようだ。(『江戸の下町』小林高壽著によると、この鐘は永い間、名匠の腕の冴えを浅草界隈に響かせていたのだが、安政二年(1855)の地震で二天門北の鐘楼が壊れてしまったから、とりはずされ、むなしく観音堂うしろの竹藪においてあったのを、のちに伝法院に移した。とある。)HSTT草案≫

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 [『江戸名所図会』で梵鐘を歩く・・・2]
 【品川寺の梵鐘】                         2011//10 HP編集担当

挿絵「品川寺(部分)」・江戸六地蔵と鐘楼(右上)が書き込まれている。2008年10月、第2回例会で探訪。 

『江戸名所図会』巻二に「品川寺」という項があり、同名の挿絵がつけられている。品川寺は品川宿内にあり東海道に面している。山門入り口には江戸六地蔵の一つが、東海道を旅行く人を見つめている。
『江戸名所図会』「品川寺」の挿絵には、文化・文政期(19世紀初頭)の品川寺の江戸地蔵、鐘楼、伽藍等の境内が何気なく描かれている。[大梵鐘]は、鐘径三尺許で、明暦三年(1657)、弘尊上人の発願により、徳川三代の将軍、家康・秀忠・家光の供養のため鋳造されたものとされ、東照宮、台徳院殿、大猷院殿の文字と、京都七条の大仏師・康斎による六体の観音像が浮き彫りにされ、さらに、観音経一巻が陰刻された今に伝わる銘鐘である。
しかしながら品川寺は、明治維新の頃には、檀主絶乏し、寺財・堂宇等散じて寺域は全く荒廃し、この大梵鐘も海外に搬出され、草堂一宇に本尊を安置し、江戸六地蔵と共にわずかに法灯を伝えるのみとなっていた。
海外へ流出した梵鐘は、パリ万博(1867)・ウィーン万博(1871)に展示されたと伝えられるが、その後所在不明になっていた。大正五年(1916)後、品川寺住職となる順海和上が入山し、行方不明の大梵鐘を捜し始め、大正八年(1919)大梵鐘は、スイスのジュネーブ市アリアナ美術館にあることを確認した。返還交渉の結果、昭和五年(1930)、大梵鐘がジュネーブより贈還され、70年ぶりに元の地に戻り、品川寺の鐘楼に架けられた。

現在の鐘楼 

幕末から明治初期にかけては、数多くの工芸品・美術品が海外に流出したが、多くの寺院の鐘や仏像・金属製の仏具も例外ではなく、あるものは美術品として、あるものは金属として流出した。この品川寺の梵鐘のように旧地に戻されたものは、極めて少ない。下に貼付する3本の梵鐘が写っている写真(1872年撮影・リュエッチ鋳造所所蔵)は1872年にスイスのジュネーヴの 近く、アァラウの町のリュエッチ鋳造所の庭に置かれていた日本の梵鐘である。左が品川の品川寺、中央が港区・白金 台の瑞聖寺、右が芝・増上寺の鐘であったことがそれぞれの鐘に鋳造されている文字から判明できた。鋳造所に置かれていたということは鋳潰す為であったのかも知れない。美術愛好家の目にとまった物だけが、かろうじて命を救われたのである。

現在、鐘楼に架かる品川寺の梵鐘 リュエッチ鋳造所に置かれていた日本の梵鐘。 

品川寺の梵鐘は既述のように大正八年(1919)にスイス・ジュネーブ市アリアナ美術館で発見され、ジュネーヴ市の好意によって昭和五年(1930)日本に返還されている。国指定重要美術品となっているが、品川寺の鐘楼にかげられて、今もその鐘の音を響かせている。
瑞聖寺の鐘は、2002年にはジュネーヴ民俗博物館に展示されていたが、現在は所在不明である。
増上寺の鐘については、何の情報も得られてない。(1872年撮影・リュエッチ鋳造所所蔵写真及び三つの鐘の項は瑞聖寺ホームページによる。)
現在、品川区の南品川2丁目と3丁目の境を、旧東海道と交差して東西に走る大通りには「ジュネーブ平和通り」の名が付けられている。梵鐘の取り持つ縁で、ジュネーブ市と品川区は平成三年(1991)友好都市堤携を結んだが、ジュネーブ市から
"Avenue de la Paix"(フランス語で「平和通り」)の標識が送られた。これを記念して命名したものである。 

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  [『江戸名所図会』で梵鐘を歩く・・・1]
  【大門通の梵鐘】
                  2011//10 HP編集担当

大門通り・梵鐘の運搬 
 大門通り・元吉原の位置

江戸名所図会』巻一に「吉原町の旧地」という項があり、「大門通」と題する挿絵がつけられている。挿絵には「大門通 昔此地に吉原町ありし頃の大門の通りなりしにより、かく名づく。今は銅物屋(かなものや)、馬具師多く住(すめ)り。鐘ひとつうれぬ日もなし江戸の春 其角」の注記がある。
絵では、銅物屋、馬具屋、鎧屋などの店が並ぶ大門通りを、藁で梱包した梵鐘を荷車に載せ、6人がかりで引いているのが強調されている。どこに運ぶのか、音色はどうか、気になる所である。大門通には梵鐘を商う店もあったのだろう。もっとも芝増上寺の大梵鐘は品川・御殿山で鋳造したといわれてもいるので、人家密集の大門通には商売の店だけで、鋳造所は、別地にあったものと思われる。

大門通りは、新吉原に移る前、元和三年(1617)から明暦三年(1657)の40年間栄えた遊郭・元吉原の入り口にあった大門を通る道筋を云った。大門は江戸時代の地名でいえば、長谷川町、富沢町、新和泉町、高砂町に挟まれた十字路辺りに北西に面して建てられていた。遊郭は大門を中心に東北-西南方向にほぼ1町、大門から南東にほぼ2町の2町四方であった。現在地図でいえば日本橋堀留町二丁目と日本橋人形町3丁目と日本橋富沢町の交わるあたりに大門があり、そこより南東に200m程が遊郭であった。大門通りは江戸時代的には、小伝馬町二丁目と同三丁目の間を直角に北西から南東へ抜けた道である。現・人形町通りと並行してはしる、東北側2本目の筋である。
2010年12月の例会「茅場町・新川・人形町コース」で配布されたの解説文の「大門通」には「建設途上の江戸においては、傾城町が麹町、鎌倉河岸、常盤橋等の各地に散在していた為、庄司甚右衛門(15751644)が廓を一箇所に定めて営業出来る様幕府に願い出たところ、元和三年(1617)許可が下りた。 そこで甚右衛門は日本橋葺屋町付近の葦の生い茂る湿地帯(約2丁四方、和泉町・高砂町・住吉町・難波町に相当)を埋め立て、四方を堀で囲んで幕府公認の一大遊郭とした。これが葭原(元吉原)であり、最盛期には遊女3,000人がいるといわれた。その中心の通りがいわゆる大門通りである。ところが明暦二年(1656)、幕府から浅草への移転を命じられた直後に発生した振袖火事(明暦三年/1657)で全焼したのを機に、同年元吉原を引き払い浅草田んぼに移転した。 以後新吉原は昭和三十三年(1958)に売春禁止法が成立するまでの約300年間隆盛を続けることになる。
遊郭移転後の元吉原地区は、隣接せる芝居町(堺町・葺屋町)の繁栄(1632~1842)と相俟って商業地区として発展した。特に名所図会にある通り、隣町の通油町(とおりあぶらちょう)の鉄釘銅 問屋と相俟って銅物屋・馬具屋が多く集中し、隆盛を極めた。
現在の同地区には、元吉原の存在を示すものは何もなく、わずかに通りの名前にその面影を残すに過ぎない。◇鐘一つ売れぬ日もなし江戸の春・宝井其角  ◇甲冑に樟脳匂う太平さ・柳多留  ◇吉原は拍子木までが嘘をつき 」とある。 

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