[1巻1冊54御茶の水-水道橋-神田上水懸樋]       

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 ☐御茶の水-水道橋-神田上水懸樋<1巻1冊54>       【不許無断転載・個人蔵】
                                               2011/6/10記入
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場所 千代田区猿楽町2丁目8辺と文京区本郷1丁目3~4の間の神田川
最寄り駅 JR総武線:水道橋駅下車徒歩5分、地下鉄都営三田線:水道橋駅下車徒歩5分
 神田上水懸樋北:万延二年(1861)・尾張屋板切絵図(部分)
 神田上水懸樋南:文久三年(1863)・尾張屋板切絵図(部分)

挿絵は、神田川は水道橋と昌平橋・筋違橋との間、水道橋より少し下流に架かっていた神田上水の懸樋をその下流から、すなわち東から西を向いて、かつ神田川の水面に近い、かなり低い位置から見上げたものである。
『江戸名所図会』本文の「水道橋」の項に、「小川町より小石川への出口、神田川の流れに架す。この橋の少し下の方に神田上水の懸樋あり。故に号(な)とす。(この下の川は、万治の頃(165860)仙台侯鈞命を奉じて、掘割らるゝ所なりといふ。)万治の頃まで、駒込の吉祥寺この地にあり。その表門の通りにありしとて、この橋の旧名を吉祥寺橋ともいへり。・・・」とある。
 [神田川御茶ノ水の開鑿]
「神田川」の項に、「江戸川の下流にして、湯島聖堂の下を東へ流れ大川に入る。明暦より万治(165560・家綱の治世)の頃に至り、仙台侯、台命を奉じ湯島の台を掘割り、小石川の水を初めてここに落さるると云ひ伝ふるは少しく誤るに似たり。古老の説に、慶長年間(15961614)、駿河台の地开闢(ひら)けし時に至り、水府公(水戸公)の藩邸の前の掘を、浅草川へ掘りつづけられ、その土を以って土堤を築き、内外の隔(へだて)となし給ふと云ふ。この説しかるべきに似たり。(按ずるに、昔は舟の通路もなかりしを仙台侯、命をうけたまはられし頃掘り広げ、今の如く舟の通路を開かれたりしなるべし。)」とある。
要は、家康の時代、慶長十年(1605)には、天下普請として隅田川から現・万世橋あたりまでの運河を開削し、本郷台地と上野台地からの川筋の水を隅田川に流すことにより、造成すすむ江戸前島地区の洪水対策と船運の拡張をおこなった。秀忠の時代、さらに天下普請が行われ、その一環として、江戸城の東北の守りを強固にすべく、元和六年(1620)には小石川から南流していた平川の流路を東に付け替えた。この工事では、駿河台と本郷台の間の谷筋を掘り割り、現在の御茶の水に人工の谷を造成し、神田山の東で、前述の慶長十年に工事した運河に接続することにより、平川の水を隅田川に合流するようにした。この改修によって、平川の元の河道は切り離されて江戸城の堀となり、東に流れるようになった平川は「神田川」と呼ばれるようになった。もっとも此の時の神田川御茶ノ水の開鑿は、舟運など望めな小規模なものであったようで、隅田川より牛込までの神田川の舟運を開くための河川拡張工事が、家綱の治世である万治三年(1660)、幕命により府伊達藩が行った。工期は翌寛文元年(1661)までの約1年間、伊達藩総費用は小判で49504両(江戸時代初期であるので一両十万円と仮定すれば、約50億円という事か。)であった。この工事中、伊達家当主綱宗(政宗の孫)は(有名な吉原の花魁、高尾大夫の一件など)放蕩を口実に20歳そこそこで隠居、その後の伊達騒動の序曲となる事件が起こっている。

           広重・『絵本江戸土産』「御茶の水」:
『江戸名所図会』「御茶の水-水道橋-神田上水懸樋」と同じアングルで描いた御茶ノ水の勝景色。「聖堂よりなほ西の方、御堀をいふ。この所両岸絶壁にして風景よし。殊に月雪を称すべし。」と注記にある。

 [御茶の水神田川の勝景]
『新撰東京名所図会』の「御茶水の勝景」の項には、「・・・神田川の流、水道橋より筋違橋に達するの間、断崖百尺の下、風景絶佳なる。・・・此の地、東都名勝の一として稱(とな)へたる渓流の如き所なるを以て、両岸高く、水流は數十尺の下にあり。・・・積翠(みどり)滴(したた)る駿河台の林は高く、断崖千尺、黄泥幾層、絶壁の峭(そそりた)つ處、只厳石の如く、古木枝を垂れて栖鴉(せいあ・寝ぐらに帰るからす)の危巣を見る。渓流潭々(たんたん・水が深くたたえられているさま)、遠く来って崖下をめぐり、縈紆(えいう・まがりくねって)して流れ去るもの、即ち神田川なり。篙人(こうじん・竿差す人)舟に棹(さおさ)して漣漪(れんい・さざなみ)を書き、風光秀美、清冷掬する(きくする・両手ですくい取る)に堪えたり。雨も窶(やつ)れもせぬ上水の懸樋、駿河台の崖腹を穿ちて、御茶の水の勝景聚(あつま)る。・・・懸樋より水道橋辺りは、蛍飛び交う門の面(おも)、草の葉裏に點じたるものもおもしろし。・・・文人墨客の輩は、此の地を茶渓と云い茗(めい・茶のこと)渓と呼び、甚だしきは、東坡(とうば。蘇軾・そ しょくのこと。10361101中国北宋時代の政治家・詩人・書家。三国志で有名な赤壁の下に舟を浮かべて遊んだ時に作った詞は赤壁賦として有名。)の赤壁に模倣(なら)ひて、小赤壁の名称与ふるに至れり。 ・・・昔は屋根船等にて、断崖絶壁の下に来り、酒肴を齎(もた)らしての遊興も、屢々(しばしば)行はれし。・・・」とある。
 [神田上水]
小学館の『日本大百科全書』の「神田上水」項に、「江戸・東京の上水道。開設後、明治三十三年(1900)まで上水道として使われ、玉川(たまがわ)上水と並び江戸・東京の二大水道といわれた。水源は井の頭池で、途中善福寺川、妙正寺川を合わせ、淀橋で玉川上水の助水を入れた。開設は家康の命を受けた大久保藤五郎が天正十八年(1590)に家康の関東入国に先だって開いたとも、また内田六次郎が慶長(けいちょう)(15961615)頃に開いたとも伝えられている。大久保藤五郎は上水開設後、主水(もんど)の名を与えられ、江戸城御用の菓子司となったが、内田六次郎は神田上水水元役となり、この上水の経営にあたった。以後内田家は、神田上水水元役を受け継いだが、明和七年(1770)からは、幕府がが直接経営することになった。神田上水は井の頭池より目白・関口大洗堰(ぜき)まで五里(19.6km)足らず、さらに水道橋まで開渠(かいきょ)であるが、神田川を掛樋(かけひ)で渡した。それ以遠の江戸城郭内や武家方・町方への配水は暗渠になっている。水道料は水銀(みずぎん)とよばれ、武家方からは石高割(こくだかわり)で、町方からは屋敷間口(まぐち)割で徴収した。  ※大久保主水は、『江戸名所図会』巻一の挿絵「主水井」に出てくる。

上水記:神田上水懸樋辺り配樋図 

 [神田上水の懸樋]
寛政三年(1791)に江戸幕府普請奉行上水方道方・石野遠江守弘道により作成された『上水記』には、玉川上水、神田上水の敷設樋のルートが細かく書かれている。水道橋懸樋への配樋図もある。目白関口で分水した神田上水は開渠で水道橋の水戸藩邸に入り、後楽園の泉水を経て大下水(谷端川-小石川末流)を掛樋で渡る。藩邸を出て、今の春日通りの下を石樋で流れ、水道橋手前の埋桝で左し、坂の地下深い所を東進、土手中腹に出て懸樋となり、駿河台下に至った。懸樋本体は木樋で、内径で深さ五尺、幅六尺という大きなもので、銅板張りの家根をかぶせ、両側を木造の壁で保護したと伝わる。(『東京市史稿』)
懸樋の位置は現在の文京区本郷1丁目3番地と4番地の間辺りから、千代田区猿楽町2丁目8番地へ掛けられていた。相当に神田川の崖が高い場所である。神田上水は自然流下方式で水を流しており神田上水樋のすぐ上流の標高5m程の水戸藩邸までは開渠で流れ下っている。したがって神田上水樋も標高5m以下に設置しなければ上水は流下しない。神田川を渡る懸樋の高さが水戸藩邸より低い位置になるよう、水道橋からお茶の水に至る坂を相当に深く掘り下げて石樋を敷設し、懸樋も水面に近い位置に設置されていたものと思われる。

『石亭画談』捕縛される雪旦の圖 

 [長谷川雪旦の捕縛
明治十七年(1884)、竹本石亭著の随筆集『石亭画談』に「吏疑盗賊、長谷川雪旦」という項がある。「江戸本郷一勝地を御茶の水と称す。鰻亭ありて守山と呼ぶ。一客来りて酒飯を命じ、鰻をくらふ。深く亭榭(物見台)結構と、山川の位置と景観悉く写して去る。其夜、亭に盗あり。主人意中以て、昼間図を成し去るものの所為(しわざ)と思う。他日その客又来る。主人之を捕吏(とりかた)に訴ふ。吏鉄棍(じって)を揮(ふる)ひ踏み入り、将に之を縛せんとす。客騒然として大いに驚く。吏中客を識るものありて、曰是老画師長谷川雪旦なり。何ぞ賊を為す者ならんやと。問て曰、叟(おきな)何を以って、屢(しばし)来て此家を窺ふや。答へて曰、項者(このごろ)、友人斎藤氏江都名所図繪を編むに其附図を余に嘱する故に来て勝地の真景をうつすものなりと、稿本を出して吏に示すに、吏の疑い解ける。主人之を聞きて深く其 粗忽を謝りて、満座一大笑いを成して別る。」と雪旦と名所図会のエピソードが記されている。挿絵にはその時の捕縛の様子が、雪旦と一緒に串に刺さったままの蒲焼や皿が散乱して描かれている。
明和五年(1769)刊行の鈴木春信の『絵本続江戸土産』の中の「神田上水御茶ノ水」の絵を示す。懸樋の起点の建物の入り口に「大かば焼」の行灯看板がでているので、
懸樋の北岸起点に鰻屋があったのは間違いないところである。絵本続江戸土産』の挿絵では、懸樋の見守番所が良く判らない。 ≪HSTT草案≫

鈴木春信・『絵本続江戸土産』より「神田上水御茶水」:右面建物の前に「大かば焼」の行燈看板が見える。
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挿絵を見よう。
挿絵は、神田川は水道橋と昌平橋・筋違橋との間、水道橋より少し下流に架かっていた神田上水の懸樋をその下流から、すなわち東から西を向いて、かつ神田川の水面に近い、かなり低い位置から見上げたものである。神田川は挿絵の向こうから、こちら側に流れ下っている。
神田上水の懸樋の跡は何も残っていないが、神田川の北岸(左岸)、水道橋から少し東に上った所に記念碑がある。この記念碑の下辺りが、上水懸樋の北側の起点であったと思われる。
挿絵は多くの水をたたえ、遠く西より来って崖下をめぐり、崖を削りながら、東に流れ去る神田上水懸樋辺りの神田川は御茶ノ水の勝景を描いている。渓流の如く両岸は高く、挿絵左、神田川右岸の駿河台の絶壁は緑に覆われ、古木がうっそうと繁り崖下に枝を垂れている。断崖千尺、絶壁状にそそりたち、厳石の如くに見える。
おりしも、文人墨客と見える三人が、竿差す舟に揺られ、昌平橋・筋違橋の方から上ってきた。渓谷の美しさ、荒々しさを楽しみ、上水懸樋を見上げている。荷物を運ぶ舟も行き来している。日本橋、鎌倉橋辺りの問屋から積み込んだ荷物を牛込河岸辺りまで運んでいるのであろう。
遠くには富士山が見える。この地からの富士山は西南西(西から22度南)の方向100kmの地になる。神田上水懸の向こうには水道橋が書かれている。水道橋は川岸に張り出した石組の上に架けられている。長槍を持った武士の主従が水道橋を渡って、郭内にすすんでいる。さらに西のほうの橋は小石川橋か。水道橋の右手の屋敷は水戸藩上屋敷である。水戸藩邸の前の河岸は広小路のようになっている。

広重・東都三十六景・御茶の水
国立国会図書館HPより転載許諾済・不許無断転載
 

さて挿絵中央に描かれているのが、神田上水の懸樋である。水戸藩上屋敷からは暗渠となり、地中深く敷設された上水樋は、神田川北岸の土手中腹に出て懸樋となり、南岸の駿河台下に至っている。懸樋本体は長さ約12間、木樋で、内径で深さ五尺、幅六尺という大きなもので、黒塗りの銅板張りの家根をかぶせ、両側を木造の壁で保護している。黒塗りの屋根の棟手摺、及び黒塗りの屋根が背景で見ずらいが、軒手摺がしっかり書き込まれている。
上水は懸樋のなかを、右から左(北から南)へ流れた。北岸は石組が橋台として築かれている。
懸樋の北岸起点部には見守番屋があり、上水の水量や汚れを監視していたが挿絵の右手の階段を上った柵の中の建物であろう。
本稿解説の項に記すように明和五年(1769)刊行の鈴木春信の『絵本続江戸
土産』の「神田上水御茶ノ水」の挿絵では、懸樋の際の建物の入り口に「大かば焼」の行灯看板がでているし、竹本石亭著の随筆集『石亭画談』の「吏疑盗賊、長谷川雪旦」の項でも、ここに鰻屋があったと書かれているから、この見守り番屋の近くには鰻屋があったのだろう。この挿絵に描かれている下の建物は鰻屋である。室内では四角いかば焼き様のものを食べている二人連れ、愉快に笑っている客が一人見える。建物の外では鰻を入れていた魚籠(びく)を運んでいる。
雪旦の本挿絵では、崖の高さが強調され、水面から随分高い位置に懸樋が架かっていたように書かれているが、実際には、水戸藩邸より低い高さに架せられていたのである。添付する広重の絵、あるいは明治初年の写真程度に低い位置にあった。≪HSTT草案≫

明治初年、水道橋から見た神田上水懸樋  懸樋屋根の棟手摺と軒手摺 
水道橋を郭内に渡る武士主従  懸樋起点際の鰻屋 
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